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『浮世絵出版論』◆商品としての浮世絵について

某月某日、こんな本を読んだ。
 
 大久保純一『浮世絵出版論:大量生産・消費される〈美術〉』吉川弘文館、2013410日、226,3p3800円+税 [注○文×索×(巻末に「図版目録」)]
 
本書は、浮世絵が生み出される背景とその流通のあり方を通じて、それらが浮世絵の画風の変化や主題の生成にどのような影響を及ぼしたかという点を明らかにしようと試みた書である。
 
最初に目次を示しておこう。
 プロローグ 浮世絵の宿命
一 錦絵の制作と販売
二 名所絵の流通
三 忠臣蔵物の錦絵と泉岳寺
四 幕末の錦絵出版:「これが江戸 錦絵合」から
五 錦絵出版の背景事情:三代豊国晩年の書簡に見る
六 盛り場から生まれる肉筆浮世絵:国立歴史民俗博物館所蔵「浅草風俗図巻」から
 
プロローグにおいて、浮世絵の流通に関わる研究史を簡潔に概観する。
そして、第章において、素人にもわかりやすいよう、まず錦絵の広範な購買層の存在を踏まえ、流通・販売を担う地本問屋・絵草紙屋、錦絵の制作工程、小売りの価格、摺り枚数、といった錦絵の制作と販売の概略を示す。
たとえば錦絵の摺り枚数だが、よく浮世絵の通俗解説本には初摺り1200枚で、売り切れそうなら2杯目、3杯目と増し摺りするなどと書かれているのに対し、<出版コストのことを考えると、そもそもわずか200枚で打ち止めの可能性のある錦絵をつくることはまず考えられない。>(p.30)とした上で、曲亭馬琴の天保12年(1841)の書簡を紹介する。これには、徳川家斉の葬儀があって市中は自粛が求められており絵草紙屋の商売が低調であるという内容に続き、<よく売れる錦絵であっても2000枚、そうでないものは1000枚か1500枚で「売留」となり、二ヶ月もすればどこの絵草紙屋の店頭でも見出せなくなる>(p.45)とある。「売留」は販売終了のこと。おそらく初摺りとしては1000枚前後を制作していたのであろう。もとより時事的・風刺的な際物の場合は、ときに短期間のうちに8000部といった大量部数さえ売り上げているものすらある(pp.48-50)。
こうした第一章で押さえた基本情報が、次章以降を読む際のバックボーンとなる。
 
第二章では、名所絵がどのように売られていたのかを推測し、その上で名所絵のつくられかたを考察する。名所絵自体については、とくに広重を中心に『広重と浮世絵風景画』で詳しく検討されていたのだが、<名所絵を商品としてとらえる版元の目線>(p.62)という観点で、名所絵ならではの市場論理が鮮やかに解き明かされる。
まず絵草紙屋の店頭を観察する(『浮世絵の鑑賞基礎知識』pp.213-5でも既に触れてはいるが)。そのためには、絵草紙屋の店頭が描かれた錦絵を題材に、陳列形態、とくにジャンル別の配置を見ていくと、店頭で目立つ位置には役者絵で、名所絵は脇に置かれるか出てもいないことがわかる。実は役者絵は上演期間中が販売期間であり、商品生命はかなり短かった。だからこそ店頭で一番目立つように陳列していたのである(p.75)。美人画も数年から10年前後で様式が変遷しているとされ、流行に左右された(p.77)。だから第一章で示されたように、店頭ではせいぜい「二ヶ月」の命なのであった。
一方で、名所絵は<長期にわたり持続的に売れた>(p.80)。したがって版木が磨滅するまで、出し続けてきたのであったし、《冨嶽三十六景》や保永堂版《東海道五十三次》といった人気の名所絵に類似する商品がなかなか出てこなかった。すなわち、売れ筋の揃物があれば、<役者絵などと異なり、それだけの費用と手間をかけるほど目覚しい売れ行きが期待できるものでもない>(p.86)のであるし、<商品生命の長い名所絵においては、一人のきわめて有能な絵師が登場すれば、もはや業界としては足りてしまう>(p.88)からだ。
ほとんど名所絵といえば北斎・広重に収斂してしまいかねないのだが、それも理由があってのことだった。絵草紙屋の店頭を観察することから、名所絵ならではのつくられかたを見出すことができた。
 
第三章は、忠臣蔵の義士の墓がある泉岳寺がなぜ名所絵に描かれていないのか、という疑問に答える内容である。泉岳寺は四十七士の墓所がある以外には景観の素晴らしさはなさそうだが、それでも多くの人々が参詣している。<それにもかかわらず、不思議なことに北斎や広重ら、名所絵を得意とした浮世絵師によって錦絵の主題として取り上げられることは、ほぼ皆無であるといってよい。>(p.101
まず忠臣蔵錦絵が3000種類以上も出されていたことを踏まえ、泉岳寺には名所として多数の参詣客が訪れていたことを紹介する。毎年末の義士祭のみならず、めったに行われなかった開帳(江戸時代には6回のみ)に当て込んだ錦絵も数多く売り出されていたのであった(もっとも寛永元年〔1848〕の開帳に際して出版された義士の錦絵は、《誠忠義士伝》51枚揃以外は不当たりだったようだが)。一方、各段通しの揃物を子細に検討した結果、一二段目、すなわち主君塩冶判官の墓前に師直の首を供えて仇討の成就を報告している場面において、多くの作品の背景には高輪の海が描かれていることを発見する(p.121)。泉岳寺の<境内そのものはいわゆる「絵になる」要素が乏しいところであった。しかしながら、境内から見る高輪の海景は、遠く下総・上総まで見通せる素晴らしいものであった。>(p.123
結論を言ってしまえば、<浮世絵風景画が盛んになった天保期以降に描かれる忠臣蔵各段通しの揃物の12枚目〔一二段目〕が、泉岳寺を描く名所絵とほぼ同等の役割を果たしていたからと考えられる。>(p.124
 
第四章では豪華摺りの存在について検討する。たとえば大判錦絵の上限価格が18文とか16文と定められていた(江戸後期の相場でも30文前後)にもかかわらず、1枚1匁5分(約150文)という高額な豪華版錦絵も売られていた(p.135)。そういった豪華摺りの事例を前提に、3年もかかって出版された広重の《名所江戸百景》全118図(目録・二代作を除く)に、初摺りの特徴を図ばかりで揃えたものが何組も伝えられているという謎に迫る。
浅野秀剛氏は、事前に摺り溜めたものを寄せ集めた結果と推理する(『広重名所江戸百景:秘蔵岩崎コレクション』)。これに対し本書では、むしろ完結後に画帖仕立てにしようとした際に、改めて初摺り同様に丁寧な摺りの一揃いを作ったのであろうとする(p.147)。《冨嶽三十六景》について言えば、<北斎、あるいは版元西村屋は、この揃物刊行のかなり早い時期において、完結後の一括販売を想定していたのである。>(p.152
この考えに立てば、摺りの早いものが良質で、後になれば質が落ちるという常識にも、一定の留保をつけねばならなくなる(p.148)。さらに一歩踏み込んで、<後から摺られたものの方が良い摺りがあるとするならば、最良の摺りにもとづいて絵師の表現意図を汲み取るという作業そのものも成り立たなくなる場合さえあるだろう。>(p.149)とまで、言及する。となれば、これまで初摺りとしてきたものも、改めて精査する必要がでてくるかもしれない。
一方、こうした考察の結果、幕末期における錦絵の出版形態として、揃物として一括販売する販売戦略がとられていたことを指摘する。画帖の形をとって販売された最初のものは、保永堂版《東海道五十三次》だとされている(p.151)。当然、大規模揃物としてまとめ売りをすることは、1枚ずつばら売りするよりも、版元にとってはるかに大きな利益をもたらすことができたはずなのである(p.155)。
 
以上のように、錦絵の流通・販売の実態を検討することにより、従来の美術史の常識を改めるべき重要な知見がいくつも得られた。
ちなみに、<一日に3200枚もの枚数を摺り上げる職人工房の体制がつくられていたことも注目に値する>(p.50)という指摘はあるのだが、残念ながら工房の実態にこれ以上踏み込むことはない。狩野派はじめ日本の美術世界では工房で制作されてきた作品は数多い。浮世絵も本書の指摘を待つまでもなく、絵師・彫師・摺師らによるいわば工房的なシステムで商品を作り上げてきた。次著ではこのあたりのテーマに注力してもらえないだろうか。
 
 
なお、文中で触れた本は以下の通り。
大久保純一『広重と浮世絵風景画』東京大学出版会、20074月、317, 15p5400
浅野秀剛監修『広重名所江戸百景:秘蔵岩崎コレクション』小学館、20078月、215p9500
小林忠、大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂、19945月、263p3689円+税
 
 
◆[大久保純一]著作リスト
監修、論集などの論文、展覧会図録などを除く
 
辻惟雄、大久保純一『原色日本の美術 第18巻 浮世絵』小学館(発売: 綜合教育センター)、19944月、250p7000 (税込)
◎小林忠、大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂、19945月、263p3689円+税
                   *制作についてはpp.177-204に詳しい。流通についてはpp.205-222に簡略に触れる。
大久保純一『豊国と歌川派』至文堂、日本の美術第366号、199611月、98p1553 (税込)
●大久保純一解説/鈴木重三監修『広重六十余州名所図会:プルヴェラー・コレクション』岩波書店、199612月、255p12360 (税込)
●鈴木重三、木村八重子、大久保純一『広重東海道五拾三次:保永堂版』岩波書店、20041月、215p22000
◎●大久保純一『北斎の冨嶽三十六景:千変万化に描く』小学館、アートセレクション、20059月、127p1900
●大久保純一『広重と浮世絵風景画』東京大学出版会、20074月、317, 15p5400
●大久保純一『浮世絵:カラー版』岩波書店、岩波新書、200811月、188, 8p1000
◎●大久保純一『北斎:カラー版』岩波書店、岩波新書、2012522日、194,4p1000
【本書】●大久保純一『浮世絵出版論:大量生産・消費される〈美術〉』吉川弘文館、2013410日、226,3p3800
 

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『兎とかたちの日本文化』◆兎の美術について

 某月某日、こんな本を読んだ。
 
 今橋理子『兎とかたちの日本文化』東京大学出版会、2013926日、2800円+税 [注◎文◎索×]
 
本書は、兎を「かわいい」とする日本人の独特の感覚、感性が、どのような経緯で成立を遂げてきたのか、兎の造形=かたちが日本の文化をどのように育んできたのかを明らかにしようとする書である。
 
目次を掲げておこう。各章の末尾には、「逸品への誘い」としてその章に関わりのある作品を取り上げ、章で論じられた文化的な意味合いを作品分析に応用してみせる。なかなかうまい仕掛けである。
はじめに――ウサギを好む日本人
I章 月の兎――うさぎ図像の伝統とは?
  逸品への誘いI 葛蛇玉筆「雪夜松兎梅鴉図屏風」
II章 「伏せた丸い兎」の理由――和菓子からミニチュア・アートまで
  逸品への誘いII 永田哲也作「和菓紙」アートの世界
III章 桜とうさぎ――<擬古典>文様の創造
  逸品への誘いIII 上村松園筆「待月」
兎の足あと――あとがきにかえて
 
著者は、冒頭で次のように言う。<いつの頃からか日本には潜在的あるいは日常的な「うさぎブーム」が存在し、それが現代日本の生活・文化にもしっかりと定着していることは、もはや明らかであろう。>(p.5)とりわけ明治初期に外来のウサギが飼育されるようになると、愛玩用に珍種を生みだそうとする流行が起き、あまりの熱狂ぶりに東京や大阪では禁止令や重課税などで兎投機を抑制する事態に至った(pp.9-11)。珍種を人工的に作り出すことは江戸時代から朝顔等で盛んに行われていたわけで、それが兎になったともいえた。しかし、いつごろからか、日本人は兎を「かわいい」とみなすようになる。
<兎を「かわいい」と見做す日本人の感覚が、実はきわめて「現代的」なものであり、しかもアジア地域でも「日本だけ」というきわめて特殊な事例であることに、日本人が無自覚であるという点も浮き彫りにされてくるのである。>(p.16)とはいえ、本書で比較文化的な議論がなされるわけではなく、あくまでも日本における兎のイメージの取り扱いにほぼ限定される。
 
「第I章 月の兎――うさぎ図像の伝統とは?」においては、月と兎の関係を知ることによって、さまざまな兎の美術作品が読み取れることを示す。
<「月と兎」あるいは「月の中に棲む兎」のイメージは、…言説の源が中国にあることが確かめられた。>(p.29)その密接な関連を前提にすると、<虚空の「天を振り仰ぐ兎」は、「月」を仰ぐために頭をもたげていることがおのずと明らかになる。>(p.31)「秋草に兎」のモチーフは、<月→満月→秋→秋草/という思考の変遷を経て、「秋草」という日本的題材とも結び付いていった>(p.32)。「木賊(とくさ)に兎」のモチーフは、源仲正の歌から世阿弥作の謡曲『木賊』の中の歌を経て、<木賊→「磨く」→明るい月→満月→兎>(p.36)という連関で考えることができる。
さらに「波に兎」のモチーフは、工芸の世界では「波兎(はと)文様」と称される。謡曲『竹生島』を原典とする説が紹介され、本文中に「月海上に浮かんでは、兎も波を走るか」という一節があることから、<「波の上を走る兎」とは、実景的に「兎」が「波」の上を走っている様子を物語るわぇではなく、実は「月の光」が湖面の上にゆらいでいるそのさまを〈見立て〉、形容している一種の譬の表現なのである。>(p.40
したがって、兎の絵に<たとえ画面上に「月」が描かれていないとしても、…鑑賞者は不在の「月」を実在のものとして感知するよう要請されている。>(p.41
 
近代に至るまで、画家は決して自由に題材とモチーフを選択できたわけではなく、見えない伝統に常に縛られていたことに思い至る。近代以前の美術作品に「兎」が登場したら、まず「月」を思い浮かべることが、その作品を理解する第一歩だ、ということになろうか。
 
著者は続いてもう一つの重要なモチーフを提示する。「伏せた丸い兎」のモチーフだ。
結論を言えば、<伏せた丸い兎⇔玉兎(たまうさぎ)⇔玉兎(ぎょくと)⇔月⇔満月>(p.54)という連関で考えることができる。玉兎(ぎょくと)とは、月の異名である。
一方、「金烏(う)玉兎」と並置されて呼ばれることも多い。この「金烏」は太陽の異名であり、太陽の中に三本足の烏が棲むという古代中国以来の伝説によるものである(p.58)。そして、太陽と月の位置関係を検証して、<右―日天=太陽/左―月天=月>(p.63)を示す。<この左右の位置関係は、〈日月〉の聖性図像を用いるあらゆる造形表現において、必ず踏襲されている約束事になっていると言える>(p.64)のである。したがって、<〈日月山水図〉や〈日月四季花鳥図〉の諸作例では、ほとんど例外なく、春夏を象徴する桜花や緑の樹々が描かれた、右隻に「日」が、そして秋冬を象徴する紅葉や雪景色の左隻に「月」が描かれる。>(p.66
この約束事を認識していれば、日月の描かれた屏風を眺めたとき、いろいろなことがわかってくるだろう。
 
著者は、こうした分析結果を踏まえて、プライスコレクションにある葛蛇玉筆「雪夜松兎梅鴉図屏風」を子細に見直してゆく。この六曲一双の屏風は、これまで右隻に兎、左隻に烏を置いていた。昨年の東北3県を巡回した「若冲が来てくれました:プライスコレクション江戸絵画の美と生命」でも、同様の展示であった。しかし、上記の約束事を踏まえるならば、<右隻には「日」を表す烏を、そして左隻には「月」を表す玉兎(ぎょくと)の兎を、明らかに配置すべきなのである。>(p.70)と主張する。おそらくこれに反論することは難しいだろう。
さらに、木に登る兎という一見奇妙な姿は、「桑実寺縁起絵巻」を参照することにより、<烏や兎はそれぞれに、「日光・月光菩薩の化身」なのであり、まずこの二つのモチーフによって、物語全体の神話性が表象される。>(p.82)と解き明かす。
結論を言えば、<この屏風は「雪夜日月図」と呼ぶべきであろう。この屏風のまばゆいほどの雪の情景は、金烏玉兎に護られて今ここへと降臨する、薬師如来の姿そのものとも見えてくるのである。>(p.90)この鮮やかな読み! 「若冲が来てくれました」展でも若冲以上に圧倒的な迫力で見る人を捕らえた本作が、実はこのような意味合いをもって立ち現れるとは。
 
「第II章 「伏せた丸い兎」の理由――和菓子からミニチュア・アートまで」は残念ながら第I章のような冴えは見いだせなかった。
 
「第III章 桜とうさぎ――<擬古典>文様の創造」においては、伝統文様である兎に花樹を組み合わせた「花兎(かと)文様」が、兎に桜花の組み合わせという「花うさぎ」に転じたことを論じる。この点について、「雪月花」文様が元ではないかとする(pp.148-9)。こうした<古典を模した新しい意匠――すなわち〈擬古典〉>(p.147)とみなし、ある意味で積極的に評価する。
 
この章で取り上げている「逸品への誘いは、上村松園筆「待月」である。画面ほぼ中央に柱があり、その奥に月の出を待つ女性が描かれた作品で、発表当時は悪評だったらしい。しかし、著者は月の出を待っているのではなく、来るはずのない恋人を待つ姿と読み解く。<「雪月花の時最も君を憶ふ」(白居易)という、不在の恋人へ込めた想いのメッセージがある。つまりそれは恋い慕う人が、もはや現れることはないのだという、一種の諦めにも似た無常観でもあるのだ。>(p.171
<上村松園筆「待月」は、東洋美人画の〈伝統的主題に準える〉という擬古典の思考を、主題の選択と描き込むモチーフの描写方法の両方で達成してみせた。>(p.171)これもなかなかに切れ味のいい分析だ。ここまで考え抜いて構成することのできた上村松園を、少し見直した。
 
「主題の選択と描き込むモチーフの描写方法」は、かつての芸術作品を見るときの、基本的な視点である。しかし、にもかかわらず、なかなか難しい。主題がいったい何なのか、それすら判然としないことも往々にしてある。描かれているモチーフが何であるかはわかっても、それが当時はどのような意味合いで描写されているのかは、必ずしも自明ではない。
西洋美術を読み解くための事典類は数多く出版されている。ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』など、日本語で読める本も多い。一方、日本美術に関しては、寡聞にしてその存在を知らない。本書のような日本美術解読の書を読むと、無性にそういった日本美術解読事典が欲しくなる。
 
 
なお、文中で触れた本は以下の通り。
ジェイムズ・ホール/高橋達史・他訳『西洋美術解読事典:絵画・彫刻における主題と象徴』河出書房新社、19885
 
 

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『ダ・ヴィンチ・ゴースト』◆ウィトルウィウス的人体図について

某月某日、こんな本を読んだ。
 
 トビー・レスター/宇丹貴代実訳『ダ・ヴィンチ・ゴースト:ウィトルウィウス的人体図の謎』筑摩書房、2013911日、1900円+税 [注○文◎索×]
  Toby Lester, Da Vinci's Ghost: Genius, Obsession, and How Leonardo Created the World in His Own Image, 2012
 
本書については、プロローグの冒頭の文が端的に内容を示している。<本書は、世界一有名な素描についての物語。すなわち、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、円と正方形で囲まれている男性像の物語だ。/美術史家はこれを、ウィトルウィウス的人体図と呼ぶ。>(p.7
 
ダ・ヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図をめぐって、二つの物語から成る。<ひとつは個人的な物語で、もうひとつは集合的な物語。>(p.10)個人的な物語はレオナルド本人の物語であり、一方後者は<ずっと広い視野で展開>し、<ウィトルウィウス的人体図が2000年以上も前にいかに概念として生まれ、それからゆっくりと十数世紀を歩んで、いかにレオナルドと運命的な出会いを果たしたのか>(p.11)が描かれることになる。
交錯した物語ではあるが、十分に読ませる内容となっているので、読みにくさはあまりない。
 
本書で登場するさまざまなキーワードが最初に提示される。
人体の<比例をめぐり、…さまざまな人やできごとや概念が次々に現れては消えていく。建築家のウィトルウィウス、太古からの宇宙論、古代ギリシアの彫刻家たち、初代ローマ皇帝アウグストゥス、ローマの測量技術、帝国の概念、初期キリスト教の幾何学的象徴、ビンゲンの聖ヒルデガルトの神秘的な幻視、ヨーロッパ各地の大聖堂、イスラムの小宇宙論、フィレンツェの工房、ブルネレスキの円蓋(ドーム)、イタリアの人文主義者たち、ミラノの宮廷生活、人体解剖、ルネサンスの建築論などなど。>(p.11
これらのキーワードが、読み進むうちに、有機的なつながりを持ち始める。なかなかいい仕掛けだ。
 
本書の中でとりわけ重要な観念は、<人体は世界あるいは宇宙全体の縮小版である、という考え>(p.46)。すなわち、「コスモス」(=宇宙)に類比して「ミクロコスモス」(=「人体」)を見るという、ギリシアの哲学者やローマのストア学者の考え方が大前提にあったと了解しておこう。
 
アウグストゥスが権力を掌握したとき、無秩序状態だったローマを徹底的に改造し、新たなインフラや神殿を建築していった。元軍人のウィトルウィウスは、帝国が創造されていくさまを見、建築術自体がまだ混沌として理論化されていないのであれば、この機会に<「この大いなる学問の総体を完璧に秩序づけ」ようと決意した。>(p.38)そこで、『建築十書』〔邦訳は『ウィトルーウィウス建築書』〕を著して、初代ローマ皇帝アウグストゥスに捧げた。このなかで、ウィトルウィウスは<宇宙の構造には「自然の力が建築家として働いて」いるのだ。そして自然の力すなわち神が宇宙に対して行なったことを、人間の建築家も自分の創造物に対して行なうべきだ>(p.42)と考えた。
 
一方で、ローマ帝国が自分たちの植民地を築くにあたって、建築の標準的な尺度が必要になった。<唯一の解決策は、人体に基づく測量体系である>(p.49)と結論づけた。しかし、人体はみな異なる。ギリシア人も同様に考えており、必要なのは<ただひとつの人体――理想的な人体――に基づく測量と比例の体系だった。>(p.50
ウィトルウィウスはこうしたギリシア人の測量基準をよく知っていた。これを念頭に置いて、「ウィトルウィウス的人体図」は生まれた。<「いかなる神殿も、均衡と比例なしにはまっとうに構成しえない」とウィトルウィウスは記している。「均整のとれた人間に似るように各部位が正確に割りつけられていないかぎり」>(p.51
これに続いて、<この人体の比例がどうあるべきかを綿密に提示している>(p.51)ただし、図示ではなく文字のみで。
ウィトルウィウスはこう記す。<人体の自然な中心はへそである。なぜなら、人間が両手、両足を広げて仰向けになり、そのへその部分にコンパスの先端をおいて円を描くと、指先と爪先がその円に内接するからだ。また、円と同じく、正方形もその人体に見いだすことができる。足底から頭頂までの長さを測って、広げた両腕の長さと比べてみると、正方形で囲まれた領域と同じように、等しいことがわかる。>(p.52)このように述べることで、<人間をひとつの円と正方形のなかに収め>(p.52)たのであった。
<『建築十書』に描写されたウィトルウィウス的人体図は、神であると同時に人間でもあり、調和と秩序をもたらし、万物の尺度を示す。…手足を広げたその姿は、ローマの神殿や都市の円形配置に、また地球の全体像に、さらには宇宙そのものに重なる。>(p.53
この『建築十書』こそが、1500年後、レオナルドが描くウィトルウィウス的人体図の発想の源泉となる。
 
しかし、ウィトルウィウスは結局無名のままだった。同時代に言及したものはなく、8世紀に至るまで歴史記録から消えていた。8世紀に、とあるアングロサクソンの大修道院長がイタリアから写本をイギリスに持ち帰った(p.57)。その後は、数多くの写本が作られていたので、現在でも132点も残っているという。<ウィトルウィウスに対する強い関心が脈々と中世に息づいていた証拠だ。>(p.58)これは、中世の修道士たちが、<キリスト教の神を概念化するあらたな手法をこれら[古代文献]に求めていた。『建築十書』については、自分たちがまさに探していたものを、ウィトルウィウス的人体図の描写に見いだした>(p.59)からであった。
その根底に、人間をミクロコスモスと見る思考法が常にあった。
 
しかし、『建築十書』におけるウィトルウィウスの記述を図示するのは、ルネサンス期まで待たねばならなかった。フランチェスコ・ディ・ジョルジュ・マルティーニが『建築論』(148184年ごろ)において、ウィトルウィウス的人体図を初めて図に描き出した(pp.207-9)。著者は、フランチェスコがレオナルドにその図解を見せた可能性を推測する。<まさに1490年、フランチェスコとレオナルドがパヴィーアでともに投宿したその年に、レオナルドはほかならぬこの人体図を描いたのだ。>(p.209
 
もう一つの可能性も挙げている。レオナルドの友人だったジャーコモ・アンドレア・ダ・フェラーラが所有していたとされる『建築十書』は、<個人的な使用のために彼[ジャーコモ・アンドレア]みずから作成した特別な写本であり、レオナルドと共同制作した可能性もある>(p.212)建築家のクラウディオ・ズガルビが発見した写本には、レオナルドのウィトルウィウス的人体図に実によく似た人体図が描かれていた(pp.213-5)。
 
最後に、ようやくレオナルドが描いたウィトルウィウス的人体図にたどり着く。レオナルドは、<これらふたつの形[円と正方形]を同一の人物像に重ねることで、ウィトルウィウスの文章の本質的なメッセージをとらえようとした。それは、人体は円と正方形に示される自然の調和を具現化したものである、というものだ。>(p.220
レオナルドは、「人間は…世界のひな型である」と書いた(p.223)。
 
レオナルドは、この人体図をおそらくなんらかの印刷本に掲載するための原稿として考えていたらしい(p.224)。レオナルドが1519年に死ぬと、手稿は愛弟子フランチェスコ・メルツィに遺贈され、その後散逸してしまう。1770年に姿を現わし、ミラノ人美術史家ジュゼッペ・ボッシが入手して初めて印刷。その後ヴェネチアのアカデミア美術館に収蔵されて、今日に至っている(p.230)。それでも一般の関心を引くのは、ケネス・クラークが『ザ・ヌード』(1956年)に掲載したのがきっかけとなったという。<本書はベストセラーになり、ウィトルウィウス的人体図にとってこのうえなく劇的な結果がもたらされた。>(p.231)ちなみに、なぜか巻末の参考文献にはクラークの『ザ・ヌード』は掲出されていないのだが。
しかし、著者は数点の現代世界におけるウィトルウィウス的人体図を例示するだけで、本書を終えてしまう。ミクロコスモスを信じない現代人が、なぜこの人体図に興味を惹くのだろうか。さまざまな場面で使われるこの人体図。いま読んでいる『骨・岩・星』という本のカバーにも、使われている。ローマ帝国初期に端を発した人体図の概念が、時空を超えてレオナルドの手を借りて図示されたことは、本書でほぼ解き明かされた。それ以後の<劇的な結果>となぜ現代人にも通用してしまうのかも分析してほしかった。
 
本書には巻末の「参考文献」(pp.255-249)とは別に、「さらに調べたい人へ」(pp.241-3)はありがたい。
ただし、本書のタイトルは原題そのまま(Da Vinci's Ghost)であるものの、読み始める前は怪しげな内容の本かもしれないと思わせてしまう点で、内容に即したものに変えるべきではなかったか。
 
なお、文中で触れた本は以下の通り。
森田慶一訳『ウィトルーウィウス建築書』生活社、1943年→東海大学出版会、東海大学古典叢書、1969年、4000円→〔普及版〕東海大学出版会、東海選書、19799月、2000
ケネス・クラーク/高階秀爾・佐々木英也訳『ザ・ヌード:裸体芸術論理想的形態の研究』美術出版社、1971年、2800円→『ザ・ヌード』ちくま学芸文庫、20046月、1900
クリス・ターニー/古田治訳『骨・岩・星:科学が解き明かす歴史のミステリー』日本評論社、2013910日、2100円+税
 
 

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Author:夢幻庵主人
隠居生活続行中。

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