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『世界を変えた火薬の歴史』◆火薬について

某月某日、こんな本を読んだ。
 
 クライヴ・ポンティング/伊藤綺訳『世界を変えた火薬の歴史』原書房、2013430日、2800円+税 [注△文×索◎]
 Clive Ponting, Gunpowder, 2005
 
本書は、今から1000年以上前に中国で発明された火薬が戦争の最も重要な兵器となるにつれて、世界をどのように変えていったかをコンパクトにまとめている。出典表示も参考文献も訳書にはないし削除したとも触れていないが、原著になかったとは思えない。とりわけ日本の情報をどんな文献から入手したのかが知りたいところ。索引はおそらく項目のとり方を原著に倣ったためか、最近のいい加減な索引づくりにうんざりしていると、とてもよくできているように思える(詳細にみると、ちょっと雑だが、まあ及第点はあげられよう)。
 
実は、かれこれ30年以上前から「モノの文化史」書誌をまとめたいと考えていた。例えば、火薬という「モノ」が単に技術的な意味合いだけでなく、そのモノが生まれることによって人間の生活や社会などがどのような影響を受け、変化していったのかが描かれた歴史書を、仮に「モノの文化史」と呼ぼうと思う(身体の一部の歴史〔例:『涙の歴史』〕とか、自然物の文化史〔例:『図説月の文化史』〕もありうるが、とりあえずは人工物を想定)。ちょうど日本書籍出版協会の《これから出る本》が出始めたのを機に、それに掲載された関連書を小さいカードに貼り込んでみたり、何かを読んだ際に参考文献をコピーしたりという程度の、全く熱心さの欠けたレベルに過ぎなかった。隠居生活を始めて、少しずつは本などを整理しなければならないので、これを機に「モノの文化史」書誌(精々「文献書目」といったところだが)作りを再度手掛けてみようかと思った次第。そんなわけで本書を手に取った。
本書は、全14章がプロローグとエピローグにはさまれて構成されている。
プロローグは「1605115:火薬陰謀事件」と題され、イギリスでのガイ・フォークスの逮捕を祝う記念日のいわれから始まる。イギリスの読者にとって、この記念日だけは<火薬の歴史において飛び抜けてよく知られたエピソードだろう。それ以外の話はほとんど知られていない。>(p.18
 
従来、火薬はヨーロッパで発明されたものと信じられていたが、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』に基づき、中国起源であることを詳細に示す。ただし、本書中ではニーダムの創見なのか、著者自身の発見なのかが定かではない(ニーダムの資料の読みはかなり恣意的だという批判もあり、ニーダムに基づいた理解が正しいかというと、疑問の余地なしとはしないが、とりあえず著者の考え方を追うこととする)。
 
中国では錬丹術で不老不死の霊薬を探究する過程で、<考えうるかぎりあらゆる奇妙で驚くべき混合物を試しているうち、まったくの偶然に、人類史上初の爆発物――火薬を発見した。この黒い粉は、三つの物質――木炭、硫黄、硝石の混合物である。>(pp.26-7)おそらく紀元800年ころに発見された(p.29)。
火薬の発見は、ただちにそれを利用した兵器の開発に結びついた。<火薬づくりは職人仕事だったが、中国は火薬と火薬を使う兵器の製造を大きな作業場で行なった。これには、中国がすでに高度な国家であったこと、産業セクターの成長によって兵器工業が発達していたことが影響していた。>(p.41
 
中国では、紀元900年から300年ほどのあいだ<火薬の爆発力の向上とその威力を利用できる兵器の開発>(p.44)が着実に進められた。<中国は火薬を使用するあらゆる種類の兵器――焼夷弾、爆弾、ロケット、大砲、手銃――を開発>(p.42)するに至った。
例えば、簡単なものでは「火槍」という<竹の棒に容器がしばりつけられてあるだけの、約5分間炎を出す火炎噴射器>(p.48)が挙げられる。射程は精々約3.6mだったという。しかし、これは<金属の砲身を使用した最初の兵器>(p.49)であるという点で重要だ。さらに、その後にはこれを原型にしてロケットとなる。ロケットの開発は<1206年には疑いなく達成されていたと思われる。…1250年ころには、中国のロケット兵器は450メートル以上飛ぶようになっていた。>(p.621350年ころには多段式ロケットも製造していた。<本体の運搬ロケットがほとんど燃えつきると、一連の導火線が自動的に多数のロケットに点火し、焼夷矢が雲を突き抜け敵に向かって飛んでいった。>(p.64
「震天雷」という<鉄の外殻をもつ最初の真の爆弾>(p.55)や、1250年ころには導火線を使った地雷が使用され始めた。1300年ころまでに考案された「自犯砲」という地雷は、<兵士が隠れた板を踏んでおもりがはずれると、鋼鉄製の車輪が回転して一連の火打ち石とこすれて火花を放ち、それが導火線に引火して爆発>(p.56)するものであった。
砲も、ヨーロッパより200年も早く中国が開発した。最初は「噴火器」で、小さい鉛弾を詰めて発射するものだったが、弾丸が内腔をいっぱいにふさぐものではなかったので、真の砲ではなかった(p.65)。<火薬の爆発力に耐えうる、砲をつくるのに適した素材を開発する必要があった。>(p.66)青銅はあまり圧力には耐えられない。<しかし中国が世界のほかの地域にまさる大きな利点がひとつあった――それは、ほぼ200年前から鋳鉄のつくり方を知っていたことだった。そしてこの金属は砲の製造にうってつけだったのである。>(p.67
ちなみに、モンゴル軍が元寇の際に、<「火銃(huo thung)」と呼ばれる武器を使ったが、これが「噴火器」だったのか、あるいは真の砲だったのかはわかっていない。>(p.69
 
中国では火薬とその利用法は極秘とされていたが、<女真族が[1126年に宋の首都]開封を攻略したことで、火薬にかんする知識がはじめて流出することになった。>(p.75)その後、モンゴルにも知られてしまう。
イスラム世界へ火薬を用いた兵器の技術が伝わったのは、<モンゴルの軍事行動を通じてのことだった。>(p.80)モンゴルは中国人を信用せず、イスラムの技術者を徴用して、宋との戦争に役立てた。<ムスリム世界から中国にやってきたモンゴル軍のなかで働いていたこの男たちは、両陣営で使用されていた火薬兵器にたちまち精通した。>(p.80
 
そして、オスマン帝国はコンスタンティノープル攻略に大型砲を用いるに至った。1422年、大砲を用いて攻撃したが、これは失敗に終わった。1453年に、ハンガリーの技師<ウルバンとその職人たちは、全長約8メートルの巨大な青銅製の大砲を鋳造した。この巨砲は、数百キロの重さの巨大な石弾を発射することができた。>(p.92)この大砲はあまりにも重く、60頭の雄牛に引かせて現地まで運んだという。<発射するたびに…砲を冷まさなければならず…巨砲が発射できたのはせいぜい17回だった>(p.94)。412日に攻撃を開始し、早くも529日にはさしものコンスタンティノープルの城塞を打ち破り、開城に成功した。
 
ヨーロッパでは火薬を用いた兵器の使用が、大きく遅れていた。ヨーロッパの<最初期の砲は、既存のイスラム世界の兵器の模造品か、キリスト教諸国家がそうした兵器で攻撃されてから開発されたものかのいずれかだった。>(p.118
しかし、火薬兵器が戦争の切り札と認識されるようになると、火薬の原料のうち、どの国も硝石の確保に躍起となった(pp.135-149)。問題は、ヨーロッパの気候のように<低温だと、硝石が土壌に大量に生成されないことだ。天然に採取するなら、家畜小屋や納屋、地下室などの壁や床からかきとるか、便所の周辺を掘り起こすしかなかった。>(p.135
 
従来の火薬は「サーペンタイン」と呼ばれていたが、これに対し「コーニング(粒状化)」という新しい加工法が生まれ、より強力な爆発を引き起こすことができるようになった。さらに火薬が長持ちし、湿気を吸いにくい性質をもっていた(p.150)。<新たな「粒状化」火薬はまた、ヨーロッパの冶金技術の進歩とあいまって、はじめて真に効果的な手持ち型火薬兵器の開発を可能にした。>(p.152
1420年代末期にブルゴーニュでつくられた「カルヴァリン砲」は、<1437年のメス包囲戦では、ある砲手が13度、大砲を発射することができた。これはふつうありえなかったので、悪魔の仕業にちがいないと考えられた。砲手はローマへ巡礼に旅立ち、罪を悔い改めることを余儀なくされた。>(pp.154-6
 
17世紀には、かなり発射できるように改良されてきた。当時、<包囲戦で通常の距離(約320メートル)から発射すると、城壁を破るまでに約6000発使う必要があった。攻城砲はふつう1日に100発以上発車できなかった…。必要とされる6000発には64000キロの砲弾が使われ、砲は約32000キロの火薬を消費した。この数字から、硝石と火薬の製造がヨーロッパ諸国家でなぜそれほど重要だったかがわかる。>(pp.175-6
 
たえまない戦争と新型の火薬兵器の増大する威力は、ヨーロッパの軍隊の規模を急速に拡大していった(p.186)。軍隊と軍艦の維持と戦争遂行には、けたはずれに巨額の資金が必要となる。<硝石と火薬をつくるための多大な努力と、ぞくぞくと登場する多種多様な火薬兵器のほかに、陸海軍に服務する兵士に給料を支払わなければならなかった。>(p.187)軍隊と戦争に膨大な費用がかかるために、さらなる資金獲得に向けて領土拡張に乗り出さねばならなかった。<火薬兵器の大規模使用によってもたらされた圧力を受けて出現したヨーロッパ国家は、きわめて費用のかかる強制的なプロセスだった。諸国家は土地、資源、権力、威信を求めて、大陸全域(のちには世界のほかの地域)にわたるほぼ絶え間ない戦争に参加しなければならなかった。その結果もたらされたのは、大規模な死と苦しみだった。>(p.195
火薬の登場とその利用に伴い、ヨーロッパ中世体制がどのように解体され、再編成されていったかがわかる。<自由都市、主教区、地方管区のような小さな行政単位はしだいに、単一国家の構造が発達するとともに併合されていった。>(p.190
 
なぜ、ヨーロッパでは火薬兵器の開発が進められなければならなかったのか。
1360年代に明が支配を開始すると、中国は長きにわたる平和と繁栄の時代になった。…その結果、1360年以降、中国を新しい軍事技術へと駆り立てていた原動力は消えていった。>(p.184)また、<オスマン帝国とムガル帝国もやはり、当初の征服が完了したあとは、中国と同様だった。>(p.196
一方、政治制度が不安定だったヨーロッパでは、<王朝間の野望、宗教上の対立、それに地域全体を支配できる国家がなかったことなどが複雑にからまりあって、致命的な状況>をもたらしていた。<その結果が何世紀にもおよぶ戦争であり、空前の規模の死と破壊だった。>(p.196)のである。
 
19世紀半ばになってようやく、知られる唯一の爆発物である火薬に代わるものが登場した。>(p.262)これが1847年に発明されたニトログリセリンである。のちにアルフレッド・ノーベルによりニトログリセリンは比較的扱いやすい「ダイナマイト」になり、主に民間で用いられた。一方、綿から得たセルロースを、熱した濃硝酸と濃硫酸で処理して得られるニトロセルロースは、火薬よりはるかに強力で、軍事用に使われた(pp.264-8)。これらの開発がなされたところで、<火薬時代は終焉を迎えた。>(p.268
火薬の役割は終わっても、交代して出現した爆薬は火薬をはるかに上回る破壊力をもっていたがゆえに、戦争はひたすら過酷化していったが、それは本書の範囲を超える。藤井非三四『「レアメタル」の太平洋戦争』では、金属という側面から戦争を読み解く。同書によれば、<金属を“戦力化”できないと満足に戦えないということだ。そこを真に理解していなかったところに日本の敗因があった。>(同書p.5)と論じる。
 
著者はエピローグにこのように記す。
1000年にわたり、火薬は人間社会が知る唯一の爆発物だった。…火薬が人びとをより攻撃的にしたわけではないにしても、戦争を激化させ、その結果をさらにいっそう破壊的なものにした。…これが道教の錬丹術師が追い求めたものの結果だったというのは、人類の歴史における数ある痛烈な皮肉のひとつだろう。>(pp.268-9
これから、別な「人類の歴史における数ある痛烈な皮肉」を探す旅に出なければならないだろう。
 
なお、長篠の戦いについては、通説に従い、信長による一斉射撃として評価している。<銃兵が高度に訓練されていたことだ。統制のとれたマスケット銃兵が横列陣形を組んで、ほぼとぎれることなく一斉射撃を続けた。>(p.233)と記す。
しかし、鈴木真哉『鉄砲隊と騎馬軍団』や藤本正行『長篠の戦い』で明らかなように、銃兵は寄せ集めにすぎず、統制がとれていたわけでもなく、一斉射撃など不可能に近かった。その意味で、著者が通説をどのような情報源に頼ったのかを知りたいところだった。
 
なお、文中で触れた本は以下の通り。
アンヌ・ヴァンサン=ビュフォー/持田明子訳『涙の歴史』藤原書店、19947月、4400 (税込)
ジュールズ・キャシュフォード/別宮貞徳監訳、片柳佐智子訳『図説月の文化史:神話・伝説・イメージ』上・下、柊風舎、20102月、各4500
ジョセフ・ニーダム/東畑精一・藪内清日本語版監修、中岡哲郎ほか訳『中国の科学と文明8:機械工学 ()』思索社、19783月(新版199111月)
藤井非三四『「レアメタル」の太平洋戦争:なぜ日本は金属を戦力化できなかったのか』学研パブリッシング、2013716日、1400円+税
鈴木真哉『鉄砲隊と騎馬軍団:真説・長篠合戦』洋泉社、新書y20035月、720+税
藤本正行『長篠の戦い:信長の勝因・勝頼の敗因』洋泉社、歴史新書y20104月、840円+税
 
 

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